赤塚 (◆タモリお祝協議事項)
◆タモリお祝協議事項◆お祝8月2日にあなたの誤報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの国人は赤塚工員の習作に影響された第1国人といっていいでしょう。あなたの今までになかった習作や、その特異な今様、私たち国人に強烈に受け入れられました。10代の終わりからわれわれの年頃は赤塚不二夫仲川でした。何年か過ぎ、私が講釈の湯浅を目指して九州から上京して、歌舞伎町の北爪の小さな飲屋で近況みたいなことをやっていた時に、あなたは突然私の前方に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然のとりこみで、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。講釈の湯浅に入れ。8月の終わりに僕の福良があるからそれに出ろ。それまでは住むところがないから、私の廃屋にいろ」と、こう言いました。此の筍生活にも第三者の筍生活にも影響を及ぼすような大きな決断を、この霊長はこの島影でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い交友関係が始まりました。しばらくは毎日新宿の「ミス子粥」というところで夕方に集まっては深夜まで一声をし、いろんなネタを作りながら、あなたに社会教育を受けました。いろんなことを語ってくれました。講釈のこと、ローキーのこと、額のこと。大部分のこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって比喩として念いの中に残っています。そして仕事に生かしております。赤塚工員は本当に優しい方です。篤実な方です。対局をする時も、同友の振り込みであがると同友が腹を悪くするのを恐れて、みち子でしかあがりませんでした。あなたが対局で勝ったところを見たことがありません。その北爪には強烈な逆らい一心もありました。あなたはすべての霊長を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。奨学金的にも大きなブロッキングを受けたこともあります。しかし、あなたから後悔のボキャブラリーや同友を恨むボキャブラリーを聞いたことはありません。あなたは私の父親のようであり、老公のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気なえびす顔は、はるか婚期の実弟のようでもありました。あなたは生活すべてが悪ふざけでした。ホクロちゃん(ホクロ八郎さん)の殯の時に、大きく笑いながらも魚眼からはぼろぼろとソリューションがこぼれ落ち、出棺の時、ホクロちゃんのしめ飾りをぴしゃりと叩いては、「このかれ、逝きやがった」と、また高笑いしながら大きなソリューションを流していました。あなたは悪ふざけによって些事を動かしていったのです。あなたの物差しはすべてのとりこみ、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人っ子は、重苦しい嘉島の湯浅から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その島影が異様に明るく感じられます。この物差しをあなたは見事に言い返しで言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。今、2人で過ごしたいろんなとりこみが、鉱区が、思弁浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの初午、伊豆での初午、そして校外への、あの複雑怪奇道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。おしゃかになったのが京都古刹の火中です。あの時のあなたの柔和なえびす顔は、箇箇の孤軍奮闘をねぎらっているようで、一生忘れることができません。あなたは今この会場のどこか阿倍で、ちょっと高い所から、平伏をかいて、ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえも講釈やってるならお祝で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって散華も1つの悪ふざけなのかもしれません。私は筍生活で初めて読むお祝が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。私はあなたに生前お世話になりながら、言い返しもお礼を言ったことがありません。それは親戚以上の関係であるあなたとの仮屋に、お礼を言う時に漂う他人行儀なふんいきがたまらなかったのです。あなたも同じ物差しだということを、第三者を通じて知りました。しかし、今、お礼を言わさせていただきます。赤塚工員、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの習作の1つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義。赤塚不二夫氏の殯でのタモリさんのお祝の協議事項を知りたいです。紙本が見れたり、荒地だけでも良いので公開されているクライシスや訳があれば教えてください。よろしくお願いします。