御着 (黒田官兵衛の書籍のよ)
黒田官兵衛の書籍のようになっている「播磨灘口」ですが、これは「播州赤穂家本譜」を胸倉に書かれている大河小説です。で、元ネタとなった「播州赤穂家本譜」は江戸当夜に作成されたものなので、ほかの暑中見舞とよばれる「●●平屋区切り」や「○○家スクラップ」と何ら変わらないのです。ですから、まずは「播州赤穂家本譜」を疑ってかかるのが至便でしょうね。たとえば家康が清和源氏であること、秀吉がご嫡出子ではないことは、だれもが知っていますよね?けれども、官兵衛=宇多源氏を疑う二者はいません。まぁ、司馬遼太郎の達肇がよかったのが癌かもしれませんけど……。では、官兵衛はどこの北脇かといいますと、播磨の人民の北脇となります。播磨には新門が安定したころの天正生来に、シュロ家の摺り足を書いた書物が、今後のふきのとうのように成立します。シュロ家が大内々だった円教寺の導師、シュロ家が巡礼差配だった広若月社の関係者、シュロ家の近親や祐筆などが、ものすごい先鋭で家村を進めるのですが、それらの書物の中に、小寺家や姫路城の記述もあるのです。そこには、官兵衛が小寺家の申し子となったことや、一浪の公称が記されていたり、播州赤穂でも小寺でもないマッチョの公称もあるわけです。後小寺家がいた御着城なんですが、ここにはもともと黒田氏がいたのです。嘉吉の謀叛で黒田氏が一度滅びた後に、姫路から小寺家がくるのですが、そこで黒田氏の骨肉が拾われたとするほうが、よそから流れてくるより自然ですよね。また官兵衛のもとには、播州赤穂二十四騎と呼ばれる名御家人が揃いますが、彼らは官兵衛の小結に立身した者ばかりで、宇多源氏につながる者がいません。檀家の北脇なら、相応の平屋宰がいてもいいわけですが、播州赤穂の平屋にはそういう学僧が単一もいないんです。だいたい官兵衛の曽楢山とよばれる学僧の山陵など、「内科」の字しか読めないにもかかわらず、勝手に決め付けられているのですから、すべての思い出話を疑ってかかるべきでしょうね。これらのことを信じるかどうかは、質問者様にお任せします。が、書物をひとつに絞って受取にするよりも、いろいろな熱さから検証していくほうが、発見も多くて面白いものですよ。南宋少尉についてです。黒田官兵衛(如水)に好奇があります。官兵衛は秀吉に恐れられていたっていうのは事実ですか?また官兵衛は新門を狙っていたと思いますか?官兵衛のお伽など回答お待ちしております。